「核保有」発言を繰り返す自民党の中川昭一政調会長

Fanatic になれる人は羨ましい。FanaticをSPACE ALC英辞郎on the web で和訳を調べると、(名詞)狂信者、熱狂的なフアン、マニアとある。念のため、Dictionary.com に当たってみると、(noun) a person with an extreme and uncritical enthusiasm or zeal, as in religion or politicsと説明されていて、日本語訳とはちょっとニュアンスが違う。


自民党中川昭一政調会長は「核保有」発言を一向に止めない。10月15日テレビ朝日の番組で口火を切ってから、10月30日静岡県沼津市の講演で、さらに畳みかけるように、昨11月1日日本記者クラブでの会見で、講演45分のうちの3分の1を核保有論議に費やしたと伝えられる。


くわえて、麻生太郎外相が10月18日の衆院外務委員会で、議論をしておくのも大事なことだと同調している。安倍晋三首相も10月27に東京都内での講演会で自由な議論は封殺できないと反対はしていない。


「核保有」の議論は、何時かはしなくてはならない案件だと思う。だだし、論理の飛躍をせずに順序立てて、中学生にも理解できるように議論していただきたい。「核保有」問題は、日本という国の未来を決定づける最重要事項ですから、小学生でも分かる説明でなければなりません。


一連の「核保有」発言で、安倍晋三首相、麻生太郎外相、中川昭一政調会長に共通している論法は、「非核三原則を順守する」という前書きである。順守するのなら、なにゆえに、「核保有」を議論する必要があるのでしょうか。本音は日本が核を持つがために議論をしたいのでしょう。


いまの国際情勢から、日本も「核保有」の必要を迫れている。だから、そのことを真剣に議論するのだと、なぜ、正面切って信じる所信を披瀝しないのですか。見え透えた嘘は、もう、国民につかないでください。国民をそんなにばかだと思っているのでしょうか。


「核保有」の反対の立場の人も、ヒステリックにアレルギー反応するのではなく、議論に参加すべきでしょう。平和のかけ声だけで、本当に平和は保障さるのかとの議論を今まで突き詰めて来たでしょうか。「核保有」という言葉に、何人も思考停止を持ち込んではいけない正念場に立たされています。


ここで、国際基督教大学最上敏樹教授の考えに触れておきたいと思います。(2004年10月〜11月NHK人間講座『いま平和とは』テキスト78〜80ページ)


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「平和を欲すれば戦争に備えよ」というギリシャ・ローマ時代から語り継がれた格言がありますが、その思考が徹底した平和のための原理であるなら、戦争に対してはあくまで「備え」にとどめ、その一歩手前で踏みとどまることが求められるが、実際にはそううまくいかないことも多い、ということです。「備え」だけで、「戦争」の一歩手前で踏みとどまるということは、言い換えれば、「備え」が相手の攻撃を思いとどまらせる抑止力になることを意味します。それで済めばよいのですが、いくら「備え」を積み重ねてもさっぱり抑止効果の働かない相手もいるかもしれません。そういう合理的な反応の期待できない相手との平和は、軍事的な備えとは別の方法で築くはかないことになります。


それと並ぶもう一つの問題点は、豊かな「備え」が自分を抑止することになる保障はどこにもない、ということです。豊かな軍事力を持ったばかりに、正当化できない攻撃を他国に加えたりしないか?これもまた太鼓判を押せるだけの経験を、私たち人類は持っていません。それを例えば、戦中戦後を通じて日本の膨張主義を戒め、戦後の一時期は首相もつとめた、石橋湛山の次のような言葉が的確についているところです。


『昔から、いかなる国でも、自ら侵略的軍備を保持していると声明した国はありません。すべての国が自分の国の軍備はただ自衛のためだと唱えて来ました。たぶん彼らはそう心から信じてもいたでありましょう。だが、自衛と侵略とは、戦術的にも戦略的にも、はっきりした区別のできることではありません。かくて自衛軍備だけしか持っていないはずの国々の間に、第一次世界大戦も第ニ次世界大戦も起こりました』
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流々遍歴―丸木位里画文集

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原爆の図

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